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小椋久美子さんが語る (2) 悔いが残った北京五輪
五輪直前に腰痛悪化
2008年、北京五輪が近づくと、体と相談する前に、「練習で自信をつけたい」という思いが勝ち無理をするようになってしまいました。腰の具合も悪くなり、決定的だったのは4月の終わり、ノック練習中にスマッシュを打った瞬間、腰に強い痛みが響きました。病院でレントゲンをとると、骨に傷が入っているということで、二週間、全く練習ができませんでした。
歩いたり、走ったりもできずじっとコートで練習を見学していました。玲ちゃん(潮田選手)が黙々と練習していました。これまでもお互いのけがの時は、特に言葉はかけませんでした。私は、自分がけがをしたり、相手がけがをしたりという経験を積み重ねて、「練習している姿を見せれば、しっかりリハビリして復帰しようという励みになる」という考えでした。きっと玲ちゃんも同じだったと思います。
自分に負けた北京五輪
北京五輪のコートに立った時、幼いころからあこがれの舞台にたてた幸せを感じる一方で不安も押し寄せました。事前の調整で納得いくプレーができず、「こんな調子で試合して大丈夫かな」と思ったのです。勝ち負けという結果は後からついてくるものと思っていますが、相手と勝負する前に自分自身との闘いに負けてしまっていました。そういう意味で、悔いが残る結果でした。
光の見えない日々・・・子どもの笑顔に癒やされて
(五輪後、全日本総合選手権で五連覇を果たした後、オグシオペアを解消した)
ロンドン五輪に向かって始動しようと思いましたが2009年1月後半から体調を崩しました。全身のだるさや吐き気、胃の痛みが続いて、いつなおるかわからない光の差し込まない毎日でした。チームとは別メニューで練習しましたが、なかなか調子が戻らず、休みがちになりました。チームに迷惑をかけられない、五輪でのメダルを期待してくれている多くの人の気持ちに応えなきゃとプレッシャーが募ると、症状も悪化してきました。
「(練習拠点である)大阪から離れてみたい」とお願いし、09年4月中旬から休みをもらいました。今の環境から離れ周囲の目が気にならない場所で生活したかったからです。ちょうどその頃、知人に誘われて、ミクロネシア・ポンペイ島に行きました。そこでは嬉しいことに、5,6歳から中学生までの現地の子どもたちと一緒にバドミントンができました。屋外のバレーコートのネットを使ってやりました。子どもたちにとって初めて挑戦するバドミントン。子どもたちは、最高の笑顔で楽しんでくれました。私は、このとき子どもたちの笑顔に癒やされながら、「子どもたちにバドミントンの楽しさを伝える仕事をいつかしたい」と思いました。
引退、周囲の言葉に「肩の力がぬけた」
帰国後、練習に復帰しましたが、やはり調子は良くなりませんでした。年末ぐらいからチームの監督たちに相談し、引退を考え始めました。周囲から大きな期待を感じていましたから、引退したら、何と言われるか、ものすごく不安でした。でも引退会見後、沢山のメールや電話を頂きました。「お疲れさまでした」「体調を戻して下さい」と温かな言葉ばかり。「ああ、私が望んでいた言葉はこれだったんだな」とすっと肩の力が抜けました。引退してしばらくたち、体調も元に戻りました。
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