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[一般の部]入選 「フ、フ、フ、」

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 高山 恵利子(たかやま えりこ)さん

 群馬県前橋市 55歳・主婦


 

 「フフフ、元気になったね」

 いつものように点滴の交換にやってきた看護師さんは、鈴が鳴るような声で言った。怪訝(けげん)な顔の私に、

 「フフフ、喋(しゃべ)るようになったもの」と答えてから、

 「私、高山さんの声初めて聞いた。フフフ」と嬉(うれ)しそうに笑った。

 「そうか、私は元気になっているのかもしれない」と思うと少し気持ちが楽になった。看護師さんは、素早く作業を終えると、来たときと同じ小鳥のように病室を飛び出していった。

 大きな瞳と赤いほっぺの魅力的な彼女は、病室に来るたび、27歳恋人なしの自分の身の上を一方的に喋っていく。必ず「フフフ」と笑って。体調の良くない私は、表情を変えたり、相槌(あいづち)を打ったりしないだけで、本当は彼女の言葉をしっかり聴いている。彼氏がいないなら、見つけてあげたいと思ったりもして、そんな時はチョッとだけ自分の体調を忘れてしまう。それが彼女の狙いなのか定かではないが、「元気になったね」と言われたことで、職務に忠実な彼女を見た思いがした。彼女は自分のお喋りに患者が答える日を回復の目安にしていた。

 自分の唾液(だえき)さえ飲み込めない激しい悪阻(つわり)で入院していた私は、日に4本の点滴だけで暮らしていた。点滴に少量のビタミン剤が入るだけで、口の中からビタミン剤のにおいがして吐いてしまうため、ブドウ糖を入れるしか方法がなかった。激しい嘔吐(おうと)で体が上下に揺れても、点滴の針が抜けないように、針を打たれたほうの手で点滴スタンドを持つことが、唯一できる自己防衛だった。

 そんな中で少しだけまどろむと、透き通った水を満々と湛(たた)えたわさび田に立つ自分がいた。水が飲みたくてたまらないのに、飲めない水を夢に見てしまう悲しさ。水は飲み込むとすぐ、冷たいまま吐いてしまうため、禁じられていた。苦しい私は、いつも数を数えていた。1秒過ぎれば1分が過ぎ、1分が過ぎれば10分が過ぎ、やがて1時間、そして1日が過ぎていく……ただ子どもに会える日がくることを信じて待っていた。

 私には体内死亡で、次々と3人の男の子をなくした過去があった。妊娠のたびに20キロの激やせを繰り返す私に、家族は子どものいない人生を考えるよう勧めた。今度の子は自分の体に代えても守り抜きたいという強い信念と、もう1ヶ月近く食事をしていない現実。私はまた同じことを繰り返すために苦しみに耐えているのかも知れないと考えると、恐怖で逃げ出したくなる。そんな時、看護師の彼女は青い鳥のように私の病室に舞い込んでくるのだが、不機嫌な私は口をへの字に曲げて、返事もしない。必要最小限のことだけ、首を動かして答える私に、彼女はいつものように「フフフ」と笑いながら話しかけてくる。おばあちゃんの人参(にんじん)畑のこと。知らないうちに付いた車の傷のこと、年齢の近い仲間のこと、私はそのたび、絵を描いている自分を発見する。麦藁(むぎわら)帽子をかぶって、緑の人参畑に立つ働き者のおばあさん、やっと買った新車の前でしょげ返る若い女性、彼女の取り留めのないお喋りは、白いベッドの上だけの私の病室に、日常生活の映像を映しだした。

 死産を繰り返す私に、院長先生は甲斐(かい)のない痛みを味あわせたくないと無痛分娩(ぶんべん)を選択してくれた。女医先生は、「女の体は頑丈にできている」という言葉を呪文のように繰り返し、萎(な)えそうな私の自信を取り戻してくれた。年配の婦長さんは子を失った私のために、妊婦さんの部屋を避け、個室を用意してくれた。大学病院の暗い廊下で、顔を伏せ診察を待つ私のつま先に、自分のつま先をくっつけて、エールを送ってくれた若い医師……私は多くの悲しみと苦しみに耐えた代わりに、医療従事者の方々のたくさんの熱い思いを頂いた。

 医療従事者といえども世間の認識と同じで、つわりを贅沢(ぜいたく)病、我儘(わがまま)病と考える人も多いと考えていた私は、医師にも看護師に対しても疑心暗鬼だった。つわりを恥じていた私は、真摯(しんし)な看護に触れるたび、素直になり、つわりを嘲(あざけ)り笑っていたのは自分自身だったことに気付いた。

 出産に立ち会ってくれたのは、偶然にも「フフフ」の彼女だった。彼女は助産師だった。つわりの苦しみに比べたら、出産は嬉しい一瞬の出来事で、がっかりするほど簡単に終わってしまった。彼女は私の手をとって、おなかの両側に突き出した骨盤に触らせると、鈴の鳴るような声で言った。

 「フフフ、高山さんのおなかペシャンコだよ。なんと優秀なお母さん! 自分の脂肪はゼロで、おなかの中は全部赤ちゃんでした。フフフ」

 私はついに優秀なお母さんになれた。

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