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読売新聞社賞「新しい一歩」

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 田中 木綿子(たなか ゆうこ)さん

 大津市 32歳・フリーター


 

 がんの告知以上にきつかったこと。それはこの先、何事もなく順調に進んでいくと思っていた恋愛が、急に音を立てて崩れてしまったこと。

 31歳になって結婚という2文字を無意識下で、意識し始めていたとき、彼に出会った。毎日夢のように楽しくて、私は24時間いつでも彼のことを考えていた。そんな時に突然みつけた、左胸のしこり。昨日まで全く気づかなかったその位置に硬いものがあって、不安が胸に押し広がっていった。

 「境界もはっきりしてるし、たぶん良性腫瘍(しゅよう)だとおもうけど、いちおう針生検しときましょう」。先生のその言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろした。

 1週間後の検査結果。その前日の、午後に鳴った電話。

 「明日の検査結果のお伝えの件なんですが、ご両親もいっしょにきていただけますか?」 え……。

 一瞬何を言われたのか理解できず、でも次の瞬間すべてを悟った。その日の空は抜けるように青く、1羽の鳥がゆっくりと弧を描いて飛んでいた。うそみたいにきれいな午後だった。その夜はあとからあとからあふれてくる涙に、頭が朦朧(もうろう)として、いつしか浅い眠りに落ちていた。

  自分の中のがん細胞。最初はあんなにも受け入れがたかったものだが、不思議と3日もたつと、ぴったりと体に寄り添ってきて、愛着さえ感じるようになってきていた。手術したら、これがきれいさっぱり外に出ちゃうんだ。

 手術日当日、「がんばれ、絶対大丈夫やで」と励ましてくれていた彼からのメールが、いつしか2日に1回となり、5日に1回になり、ついに週1になったときに、思いがけない不安におそわれた。

 「今日の夜、遅くなるけど電話する」。久々の彼からのメール。うきうきした気分の反面、言いようのない不安感が漂ってきていた。「もしもし」。いつになく低い声を聞いたとき、私は全部を理解した。

 病気になった私以上に、彼は悩んでいた。私を支えきれないという焦り。先の見えない不安。何もできないジレンマ。その全部に耐えかねて彼は私のもとから去っていった。手術で取り去られたしこりといっしょに、私の中で何かが消えた。胸を失うことよりも、彼を失うことのほうがつらかった。

 それからの私は無気力で、憂鬱で、外の世界に出るのがこわかった。笑えないと思った。笑ってたら、がん細胞も死ぬんだよって、周りの人々は口々に励ましてくれていたが、そんな気分になれなかった。

 初めて二人で行った海遊館。観覧車も。大阪のビルから見た街並みも。ルーブル展も。いつでもいっしょにいるだけで楽しかった。もっと手をつなぎたかった。映画なんていつでも見られるし、外に遊びに行こうと言っていたのは、ついこの前の事なのに、今ではもう、いっしょに映画を見ることもできない。

 胸が苦しい。目が覚めても、熱いシャワーを浴びても、おいしいものを食べても。ぎゅうって胸を握りつぶされているみたいに。苦しい。くるしい。

 初めての抗がん剤。念のために5日間の入院。吐き気がして、背骨が痛くなるぐらい、ずっと横になってすごしていた。看護師さんが部屋にやってきた。

 「ご飯食べれる? しんどかったらおかゆにしてもらおうか?」

 ぼんやりしながら、はいって返事をした。

 その日のおかゆは、小さいころに風邪をひいて寝込んでいた時に、母が作ってくれたものとおんなじ味がした。おいしくて、おいしくて、涙が出た。

 大学時代の友人からのメール。「なにかあったら、言いや~。すぐ飛んでいくで」「みんなついてるよ」「よくなったら、快気祝いしなな」。ばらばらになって、疎遠になっていた友達を、すぐそばに感じた。ひとりぼっちになったのに、ひとりじゃないと、そのとき思った。

 次の日のお昼ご飯。今度は、調理師のおばちゃんが部屋にやってきて、「昨日な、実は栗ご飯やったんよ。もし今日食べれそうやったら、ちょっと残してあるし、食べてみる? みんなには内緒やで」と。彼女はほんとうにやわらかくほほえんでいた。

 その秋はじめての栗ご飯は、ほんのり甘くていっぱいの愛がつまっている気がした。「あなた、ゆーーったりしてていいねぇ。なんかあったら、いつでもおばちゃんに言うておいで」。ゆったりしたおばちゃんにそう言われて、一番のほめ言葉をもらった気がした。調理師のおばちゃんは、いつでも私のこころの芯の部分を、しっかり支えてくれている。

  強くなろうと心に決めた。もう泣かない。未来はまだ見えないけれど、しっかり歩いていこうと思った。私の中のがん細胞にすべての人の不安や悲しみが吸収されればいいと思った。そしたらあたしが抗がん剤で、一気に退治してやる。弱気なこころも、疲れた悲しみも、あの人を想いつづける切ない思いも全部。

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