シリーズ痛み 続・私の物語
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ケーシー高峰さんが語る (3) 医事漫談の原点は母にあり
医学部をやめ、勘当されました

なぜ医事漫談を始めたかって?一言で話せば、「医師になれなかったけれど、白衣をきて親孝行したい」という気持ちだね。
母は江戸時代から代々続く医師の家系に生まれて、自らも医師として無医村で開業、地域に貢献していました=ケーシーさんの母・門脇シヅエさんに関する記事はこちら=。兄や姉も医師や歯科医。自分も当然のように、医学部に入学しました。
でも、途中で医学部をやめちゃった。
一人だけなぜかDNAが違ったの。
父親の影響が大きかったのかもしれない。父は、若いころ商社マンとして海外をとびまわった人で、家にはラテンやジャズのレコードがたくさんあって、よく聞いていました。また、ラジオも好きだった。耳にとびこんできたのは、徳川夢声さんなどの番組。話す内容だけじゃないんだよね。話の間や、タイミングまでがおもしろさにつながる。それが話芸だね。夢中になってラジオにかじりついているうちに、「いつか自分も」と芸能界にひかれていきました。
医学部から芸術学部に転部したことを知った母は、「おまえにやる金はない!もう帰ってくるな」と激怒。そのまま勘当されました。
母との連絡は途絶えました。でも、後から知った話だけど、母は上京の際は、都内で歯科医をしていた姉と一緒に、こっそり舞台にきてくれていた。心配していたんだろうね。
十数年ぶりの母との会話はドッキリで
おかげさまでそのうちラジオやテレビのレギュラーも持つようになりました。永六輔さんが新聞で、「東京にも面白い芸人がいる」って自分のことを紹介してくれたのね。嬉しかった。もう40年ほど前のことだけど、そういうご恩は忘れちゃいけないね。
母との交流が再開したのは1970年の春。これも忘れないね。だって十数年ぶりの会話が、テレビの生放送中だったから。当時CX系で正午から「お昼のゴールデンショー」という生放送がありました。そこで、突然、「電話に出ろ」と言われたの。よくわからないまま出たら、いきなり「まーだ、ばかやってるのか」という懐かしい声がしてね。本当に驚いた。その日は、山形でのネット(放送)が始まった日。それを記念してスタッフがどっきりで仕掛けた企画だったんだね。
そのうち、母親も「おまえもようやく一人前になったか」と認めてくれるようになりました。でも、売れてからもしばらくは、「医師がだめなら理学療法士は?」 「歯科衛生士もいいんじゃないか」など言っていたね。母の気持ちはよくわかるけど、やっぱりなりたいと思う人がならないとダメだよね。
今の関心は認知症

病気と仲良くしろなんていいません。そんなこと一生治療費がかかるだけ。自分の反省も込めて、舞台では「リハビリをちゃんとやれば苦労しない。リハビリをまずしっかり」と言っています。
腰痛やがんを経験して、お客さんとの距離が近くなったなと思います。自分の体験を話すと、ぐっと乗り出してくるのがわかる。
医事漫談のネタはつきないね。常に、新しいネタを考えて試しています。自宅には、医学関係の本や雑誌が山積みだけど、すべてに目を通しません。かみさんが「これは!」と思う箇所のページを折ってくれているの。そこを読みます。
今、関心があるのは認知症。76歳だけど、これからだと思ってます。母も80歳を超えてからますます元気に活躍していたしね。だから認知症予防は重要。
どんなネタをするかは舞台に出てから決めています。まず1分は、何にもしゃべらずにじっとお客さんを二階席から、みていくの。会場はそれだけで笑ってくれる。で、何をやるかを決める。それが認知症予防になる。
俳優としても、昨年、藤田まこちゃん(俳優・藤田まことさん)から電話がかかってきて、「ケーシー、こんな話があるけどどう?」って認知症のドラマの企画に誘われたの。でも、残念なことに今年、まこちゃんが、亡くなってしまって・・・・同学年なの。寂しいね。「いい俳優はどんどん亡くなる、俺もまもなくだ」って、舞台でネタにしてます(笑)
ケーシーさんの母・門脇シヅエさんの記事は1998年2月22日に、読売新聞朝刊[追悼抄]のコーナーに掲載されました。
無医村の命を守って 急患に備えモンペで寝る
辺地医療に生涯をささげた門脇シヅエさん(1月18日死去、99歳)

「モンペ姿で寝てヨ、よく子供が作れたもんだ」。ケーシー高峰(63)が観客を笑わせる母の話は、決して作り事ではない。急患の知らせがあればすぐにでも外出できるように、母が昼の格好のまま床につくことを、末っ子は知っていた。
山形県新庄市で江戸時代から続く医家の生まれ。大正十年に東京女子医専を出ると、東小国村(現最上町)に開業した。専門は内科と小児科。が、ほかに医療機関のなかった村では、事故や病気のあらゆる患者を診てまわった。
仕事への熱意は、学生結婚した夫に未知の山村で妻を助ける人生を決意させる。働きながら五人の子供を育てる彼女を、村人は「女医さん」と呼んで慕った。
三男の篤さん(67)は言う。「小さな体で、朝から晩までちゃっちゃか歩いてましたよ」。山間の集落を訪ね歩き、月に一足げたをつぶした。腰を超す雪をかきわけ、雪だるまのようになりながらの往診。吹雪の中を、急病人のもとへ人力の「箱そり」を飛ばすこともあった。
営林署や学校の嘱託医のほか、民生委員や村議も務め、医療行政の向上に努めた。戦後、情熱を注いだのは計画出産の励行。間引きや子供の身売りが当たり前だった暗い時代に、「いのち」の灯をともし続けた。
「なんで女医さんは、こんな大変な仕事を続けるの?」。営林署職員の女性が尋ねたことがある。昭和三十年代、トロッコで山奥の作業所へ向かう道。診察カバンの重さに驚いてのことだ。「医者は誠を尽くすのが務めだから」。きっぱりとした言葉が返ってきた。
かつての無医村は、今や「医療と福祉の町」をうたうまでになった。できたばかりの大型医療施設で、女医さんは永眠した。守り、はぐくんだ多くの命にみとられて。(松本由佳)
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